境界の溝 in「水海道まんなかセンター’’みつかる‘’」

ホームタウンというものはどこまでの範囲をさしているのだろうか。
家から目的地へ向かう時、一歩外に出た瞬間から目的地に到着するまでを移動する間は、「目的地へ向かっている道中」という風に知覚されるが、その帰り道の場合は少し違ったように感じるのはなぜだろうか。行きも帰りも同じ道を歩いているはずなのに、行きは何かを置いてきてしまったような感覚だったり、目的に向かって突き進んでいるような気持ちになり、帰りは自然と安堵を覚えるような感覚だったり、何かを終えたような感覚になる。目的に対しての事前事後なのだから当たり前のような気もするが、見ている景色はどちらも同じもので、歩んでいる道もいつも同じはずである。そこに確かな違いがあるにも関わらず、その違いがどこで生まれているのかを考えるとあまりよくわからない。

領域や境界というものを考えた時、「境界線を越える」という言葉が一般的だが、境界は線ではなく、面で存在していると考える方がしっくりきている。
線という言葉を使った時、どうしても図上に落とされた細い線を思い浮かべてしまうので、それ自身で事象は完結しているように思えてしまう。例えば、白紙の中央に縦線を引いた際、線に対して左と右の領域に分かれたことで、中央に存在する線というものがより直接的に知覚される。

ただ、少し冷静になってみると、左の領域、線、右の領域と区分けされているようにも見えるが、この線を拡大して見てみると、左領域と接しているのは線の左端部のみで、右端部も同じように右領域としか接しておらず、線の中心部においては、左領域、右領域、いずれとも接していない。ということは、境界線というものは、一見すると、左領域、境界線、右領域と並んでいるようでいて、実際は、左領域、境界線左端部、境界線の中心、境界線右端部、右領域という順で並んでおり、境界線端部は線ではなく面として立ち上がっていて、それぞれの領域に属していることになる。そうすると、いずれにも属していない境界線の中心は空白の状態、あるいは、境界面と境界面の間には溝のようなものがあるのだろうということが認識できる。

本計画では領域と領域を示す境界面をそれぞれ別の素材と型で立ち上げ、その間に隙間をつくることで、中心にある空白の状態をより知覚できるように計画した。道路の白線を越える、建物の敷地に入る、階段を一段上がるなど、境界を越える際に感じる知覚が切り替わる瞬間は、この空白の溝が起因しているのではないかと感じている。

例えば、車を運転してトンネルを走っている際、もちろん、入口や出口は目に見えて景色が切り替わるのだが、あまり景色の変化が乏しい内部を走行していたとしても、トンネル内の照明が等間隔に配置されていることで、一定間隔ごとに境界を越えるような感覚が認識できる。
これは線を越えているのではなく、面と面の中心にある空白を知覚しているからではないかと思っている。この空白はどの境界にも存在しているが、トンネル内部や国境の壁のように、それを意識しやすい状況もあれば、日常に存在する境界のように意識しづらい状況の方がほとんどだろう。この空白は無意識のうちに知覚されているが、人が積極的に意識しない限り、溝として認識されることはない。行きと帰りが違うように感じるのは、この空白の溝をより意識したか、していないか、の違いなのではないかと考えている。

それは、長年住んでいる町のことを実は詳しく知らなくても、ただ住まいがあるというだけでホームタウンだと勝手に思いこんでいたりすることや、ホームタウンだとは思っていない職場付近の景色を何気なく見ているようでいて、実際は5軒先10軒先までの建物をしっかりと覚えているということと近しい関係をしているように思っている。
そう思うと、ホームタウンという言葉とその領域は絶えず変化していると考えれば、とてもしっくりくる。

2026
所在地
茨城県常総市
種別
複合施設(児童センター、交流センター、飲食/物販店舗)
担当
山本紀代彦、森永一有
施工・施工管理
杉本隆治(マナトレーディング株式会社)
施工協力
四宮慎太郎(株式会社LOSKA)、道正弘行(DBRJR)
建築の設計
株式会社染谷工務店、平岩祐季、竹内咲恵子(株式会社オープン・エー)、米田真大(YND ARCHITECTS)
写真
河田弘樹